藤井節郎先生について(about Fujii)
藤井節郎先生について

藤井節郎先生 藤井先生は、昭和24年3月九州帝国大学医学部を卒業後、28年4月九州大学助手(医学部)となり、昭和34年4月同講師(医学部附属病院)、同年10月同助教授(医学部)を経て、昭和37年7月徳島大学教授(医学部附属酵素研究施設)、昭和51年4月から大阪大学教授(蛋白質研究所)となり、病態生化学を担当される。
昭和59年4月退官、同大学の名誉教授となられ。また、同年に大塚製薬株式会社琵琶湖研究所長に就任したが、平成元年8月4日、惜しくも64歳の若さで急逝された。

 (株)メディカル・プリンシプル社のDOCTOR’S MAGAZINE 2013年05月号および日本経済新聞(2013/1/29)に掲載された齋藤 康千葉大学長の記事から一部引用させていただき、当時の藤井研究室の雰囲気を紹介する。「藤井先生はコレステロールなど脂質の研究の国内の第一人者だった。(齋藤氏は)大学の近くに住んで研究に没頭。休みは年に1日、研究室全員で繰り出す阿波踊りの日だけだった。実験結果が気になると夜中の2時、3時でも呼び出しの電話がかかる。跳び起きて玄関を出ると、先生が手配した大学行きのタクシーが待っていたこともあった。」(藤井先生は)「命じるだけでなく自分も夜中の2時でも3時でも詰めている。(中略)当時は全国から40人もの“弟子たち”がいたというから、藤井研究室の情熱の大きさと予算規模は圧倒的であった。」「藤井先生の口癖は「10倍」。一流の研究者になりたいなら、他人の10倍実験して、結果も10倍厳しく吟味する。「10倍の哲学」は先生の研究姿勢そのものだった。指導は厳しかったが研究は楽しかった。」1975年、齋藤氏は千葉大学へ異動されるが、その時に藤井先生が齋藤氏に送った言葉は、「これからお前は人の上に立って若い者を指導していく。そのとき心に留めておく言葉を送ろう。それは“降るような愛を注ぐ”だ。雪が降る日に天に向かっていると、雪が顔にあたって雪が溶ける。溶けても溶けても愛を注ぐように雪は降り注ぐんだと。その気持ちを忘れずに若い者を大切にして、仕事をせいと」であった。齋藤氏が開発していた高脂血症治療と動脈硬化予防の薬品リバロについて、食道がんで病床に就いていた藤井先生に相談した時の言葉は、「オマエの言う通りの意味がありそうだ。ただし、特許を取るとか考えずに、純粋に患者さんに役に立つ薬を作るのに徹しきれるなら、やりなさい」であった。この言葉に励まされて、齋藤氏は、現在世界中で販売されている悪玉コレステロールを低下させる薬を開発することに成功する。
DR. SETSURO FUJII MEMORIAL GALLERY藤井先生はハードな研究から制がん剤のフトラフールの作用機序の解明、UFTの発明、タンパク質分解酵素阻害剤ノイエル、FOY、フオイパン、フサンなどの発明と薬の開発、高脂血症剤プラバスタチンの発明などに関与し、多くの業績を上げておられる。こうして開発された薬の特許ライセンス料の一部がこのたび徳島大学に寄附された。

功績/専門

昭和24年 九州帝国大学医学部卒業
昭和25年 九州大学医学部 助手 医化学教室
昭和31~33年 米国エール大学 生化学部門(フルトン教授)に留学
昭和34年 九州大学医学部 講師 医化学教室
同 助教授 医化学教室
昭和37年 徳島大学医学部 教授 酵素生理学部門
昭和51年 大阪大学 教授 蛋白質研究所機能制御部門
昭和55年 財団法人藤井節郎記念大阪基礎医学研究奨励会設立
昭和59年 大阪大学 退官
大阪大学 名誉教授
大塚製薬株式会社・琵琶湖研究所 所長
昭和60年 ニューヨーク州立大学 客員教授
昭和62年 ニュージャージー ロバートウッドジョンソン医科大学 客員教授
平成元年8月 死去
正四位勲三等旭日中綬章を授与

専門

  • 癌の生化学的研究
  • 蛋白質分解酵素と病態に関する研究
  • 脂質代謝と病態に関する研究

ギャラリー


徳島大学 藤井節郎記念医科学センター
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